これがベトナム大学院の実態だ!

Trường Đại Học Bách Khoa Thành Phố Hồ Chí Minhの大学院修士課程に社会人入学

「教室はまちがうところだ」

授業中のことだったので前回のエントリに含めたかったがなぜか含めてなかったのでこちらに。
実は、2019年3月16日、Xử lý ngôn ngữ tự nhiênの5回目の宿題答え合わせの場において、先生から、「間違いをすることが重要。写真を撮るのは重要ではない。」とような発言があった。
これって、30年ぐらい前に言われた、「教室はまちがうところだ」という言葉だよね。
ベトナムは30年前の日本といわれるが、この概念も30年たって日本から輸入されたか。
なお、「教室はまちがうところだ」という言葉は昔からあったが、同名の絵本が2004年に発売されたらしい。
もちろん書いてある内容というか、趣旨は同じである。
あの悪名高いNguyên lý ngôn ngữ lập trìnhにおいては、そもそも授業中に間違いが許されない環境にあった。
生徒の名前を呼んで当てられるが、正解できそうにないのでそもそも呼ばれても無視して黒板の前に行かないということもあった。
なにせ、正解できるまでずっと黒板の前に立たされるのだ。これはきつい。
そのような完璧主義を貫いても過半数が単位取得できず再履修を余儀なくされる。
自分はこの科目がトラウマになったので今年は再履修せず。
そんなこともあって、Xử lý ngôn ngữ tự nhiênは間違いが許される環境ということにほっとした。

「教室はまちがうところだ」レビュー
「教室はまちがうところだ」のレビュー 桜なみきさんの声 | 絵本ナビ
これを書いたのは自分と同じ40代の人。
>私自身が、子供の頃 間違うのが怖くて、笑われるのが怖くて、ほとんど手を上げられませんでした。
>そして今、小学校に入学して半年になる娘が、同じ状況です。

自分も子供のころというか、40代になった今でも同じ状況だ。
なので、同じような子供というか、大人でも同じ状況の人間は大勢いると考えられる。
やれ国際化だのアクティブラーニングだの言われるが、そんな言葉の概念よりも、「間違って当たり前」という考えを浸透させるのが先だろう。

Xử lý ngôn ngữ tự nhiênの宿題答え合わせにおいても、間違った場合には加点はされないかもしれないが、減点もない。
なので失うものは特に何もないわけだ。
さらに、運が良ければ正解として加点の可能性もある。
ノーリスクでリターンを得られる可能性があるという意味では、ただでできる宝くじのようなものだ。
自分の場合は、間違ったら恥ずかしいという気持ちを克服したというよりは、教室で変に目立ってしまうことよりも、単位を取れない、最大在籍年月の4年で修了できないことを恐れる気持ちが大きい。
なので、「教室で変に目立つのは一時の恥、単位を取れずに4年で修了できないのは一生の恥」を心掛けるようにしている。

さて、せっかく名言「教室はまちがうところだ」を題材としているのだから、もう少しこの言葉を考えてみよう。
間違いを恐れて小声とか、おどおどした態度で発言すると、たとえ正解であってもカッコ悪く見えてしまう。
逆に間違ってるのに大きな声で堂々というと、なまじ正解するよりも印象が良く見える(少なくても生徒の側から見て)。
実はメンタツに拙著が掲載されたのだが、面接の場において、良くわからない答えであっても堂々と言うことで内定につながるという理屈である。
これは万引き犯人にも見られる傾向だ。
万引きを捕まえる店員や私服警官は、キョロキョロ、コソコソしている人間をマークするという。
逆に、堂々としていると捕まらない。
ステッキを持った、身なりのいいジェントルマンと言った風貌のおじいさん。
百貨店のテレビ売り場で若い店員を捕まえて、「きみ、これを下まで運んでくれんかね。」
若い店員は「かしこまりました!」と答える。
店員がテレビを運んでいるわけだから、当然他の店員も全く怪しまない。
かくしてそのジェントルマンは重いものを持つことも走ることもなく盗品を手にする。
上司「馬鹿モーン!あいつがルパンだ!追えー!」

授業でこれが応用できるのがプレゼンテーションだ。
昨年度においてプレゼンテーションで高得点を取ったのもこれが大きい。
何しろ、プレゼンテーションをするぐらいだからそもそも正解とか不正解とかない。
しいていえば他の人と被ったらパクリなので不正解。
つまり、被らなければ正解。
なので、おどおどするべき理由がそもそも存在しない。
実はプレゼンテーション中に延べられる内容自体は間違っているのだが、そもそも他人に指摘できるようなレベルではないので、結局誰も間違いに気づかないという寸法だ。